ボードゲームの雑感「お金の教育 その1」

昨年末に行った某北海道のスキーリゾートは、そこが日本であることを忘れさせるに十分なほど、中国語があふれていた。その感覚にさらに拍車をかけていたのは、電子マネーの取扱いだ。日本の電子マネーは一切使えないが、中国の電子マネーの決済はOKという状況であった。中国は急速に電子決済が浸透しつつあるので、中華需要をあてこむのであれば(ついでにスタッフの負担軽減にもなる)、そうした対応はごく自然であると言える。

日本でも消費増税にあわせて電子マネーを普及させようと政府が躍起になっているが、一方で気がかりな点がある。カネについての教育、特にカネの価値や計画的なカネの使い方等の金融教育が置き去りにされているのではないか、ということだ。

物理的な貨幣(硬貨、紙幣)ではなく、単なる数値としての電子マネーが当たり前になると、子供にカネの価値を教えるのは現在よりも困難になることが予想される。
例えば財布の中に10円玉が10個入っていたとする。店で50円のものを買った場合に、実際に財布の中身が半分になったことは、視覚的にも触覚的にも感じ取ることができる。しかし、これが電子マネーであった場合は、100が50になった、という記号上の変化、言い換えれば抽象的な変化しかない。

古典的なピアジェの発達段階説を引いてくるのであれば、前者は具体的操作期の初期段階の範疇であるのに対し、後者は形式的操作期の範疇に入る。ゆえにカネの教育の素材としては、物理的な貨幣を用いるほうがわかりやすかろう※。
※もちろん、ピアジェの発達段階説が厳密に正しいわけではないし、発達の最近接領域という考え方があることから、できる・できないの境界は曖昧(あるときはできても、別の機会にはできないかもしれない。人の助けがあればできる、等)なものではある。ただ、物理的な貨幣を扱うほうが、数字でしかない電子マネーよりもカネとしての実在感は強く、子供にとって理解の助けになるのは間違いないと感ずる。

もっとも、こうした感覚はオールドタイプ的発想であり、デジタルネイティブであれば至極当然のように順応する可能性はもちろんあるだろう。ただ、いつの世にも数学が苦手という人間はいるもので、財布の中身を確認したときに1000円札と10000円札を間違えることはそんなにないが、携帯端末上の1000と10000を間違えることは、結構な頻度であると思う。

物理的な貨幣を用いることについて、電子マネーよりも優位性があると思われる領域は他にもある。例えば、貨幣はそれぞれ価値が異なっており、同じ枚数でも1円玉1枚と100円玉1枚は100倍の差がある。逆に言えば、100枚の1円玉は1枚の100円玉と等価であり、互いに交換が可能ということだ。これは“くずす”“まとめる”という行為を可能にし、パズル的な思考──決められた条件下で最適な解を出すための思考──の素地となる。単純に96円の品物に対して101円支払って5円玉を1枚もらうような、少しでも財布を軽くするかのごとき思考は、まさにパズル的な要素を含んでいると言えるだろう。

また、物理的な貨幣は目に見えるリスクヘッジを行いやすい。財布や定期を無くしても帰宅できるように、手帳に1000円札を入れておく、というのは立派なリスクヘッジだ。また、お祭りに行くときに、必要な分だけカネを持ち出し、財布紛失やスリに対する被害を最小限に抑えるというのも然り。これが電子マネーだと、前者についていえばリスクが分散していないため、紛失時の深刻度が大きい(携帯とスマートウォッチという形でリスク分散することは可能かもしれないが)。後者についていえば、支払元の銀行口座等の限度額設定や電子マネーの利用停止措置をとらない限り、文字通りすっからかんにされてしまうこともあるかもしれない。

技術の進展に伴って、電子マネーに対する不安は払拭されるだろうが、安心してすべてを電子マネーに委ねるにはまだ早いとつくづく思う。

あとは蛇足だが、形としてそこにあること自体が貨幣の価値の一部である点も見逃せない。アンティークコインは「手のひらに載る歴史」とも言えるもので、手に取って眺めるだけでも想像力が刺激される。おれは起源125年前後のローマのデナリウス銀貨を持っている(いま流行りのコインによる資産形成とはまったく無縁である。念の為)。この時代はハドリアヌス帝の治世であり、マンガ「テルマエ・ロマエ」の時代である。かの世界に没入するアイテムとしてこれ以上に手軽なものはそうそうない。形としてそこにあることの価値とは、つまりはそういうことだ。電子マネーにはこれが致命的に欠けている。欠けているからこその電子マネーの利点ではあるのだが…

あれ?ボードゲームの話がでてこないな。長くなったので続きはまた今度