雑感「オリンピックにおける金をとりたい人々」

タイトルを「キンをとりたい人々」と読んで、「ああ、アスリートの大多数はそうでしょうよ」と思った人は一般的な感性の持ち主である。一方で「カネをとりたい人々」と読んだ人は人間的に少し問題のある感性の持ち主である可能性がある。もちろんおれは後者である。

政治と宗教の話はSNSでは禁物という言葉があるが、オリンピックの話は極めて政治的な内容であるくせに、さまざまなところで語られていて、オリンピックの開催以上に先の言葉の存在意義が危ぶまれる昨今である。

まあそんなことはどうでもいい。

オリンピック、パラリンピック(以下、オリパラと呼ぶ。)は正直どうでもいいが、この騒ぎを傍から眺めて感じたことを書く。

1:成功、失敗にこだわる議論

一番違和感があるのは成功、失敗に関わる議論だ。オリパラは大規模な競技会であって、開催するかしないかの2つに1つでしかない。開催に際して成功とは何なのか、失敗とは何なのかが明確になっていないから、双方の議論がかみ合わない。いや、噛み合わない同士で噛み合っているのかもしれない。

反対派は「無理やり開催することでコロナ感染が拡大するから失敗」、推進派は「感染対策して開催するからコロナ感染は広がらず、大会も盛り上がる」という論調を見ると、大会によってコロナが拡大しなければ成功、拡大すれば失敗という見方もあるのかもしれないが、とすれば選手がよいパフォーマンスは二の次ということか。

ちなみに推進派(特に国及び開催委員会あたり)の成功の真意は「オリパラにかけたカネがムダになるのは避けたい、あわよくばリターンを期待したい」というもので、選手がどうとかは1ミリも考えていない*1。選手がコロナに感染したら舌打ちしてその選手を罵倒するんじゃないかと思う。彼らが期待するのはメダルとしてのキンではなく、打算的なカネである。

成功、失敗の言い争いの結果だが、オリパラが終わったあと、世間は結果論による成功・失敗論議がなされ、あっという間に別の話題にかき消されて、あとは歴史の片隅にでも追いやられてしまう未来が容易に想像できてしまう。人生の貴重な時間、そのような不毛な議論に使うのはモッタイナイと箴言する次第。

2:「意識高い系」の人々

誰が意識高い系で誰がそうでないかを見分けるのは極めて難しいことではあるが、世間の意見の大半はオリパラ開催反対であり、その中に意識高い系がゼロであるはずがなく、少なからぬ割合で反対派にいるという前提で書く。

「意識高い系」の人々は、自己啓発本やら耳障りのいい言葉に勘違いして、明日から生活を張り切っちゃうものの、明後日にはもとに戻るを繰り返す人と考えられ、また学んだことを様々に応用する(ただし1時間以内しか保たない)ことに長けた人である*2。そんな人々が読んだ自己啓発本の中には、「やらない理由よりもやれる方法を考える」といったフレーズが少なからずあったはずであろう(ナンパ本にあらず)。さて、これが身についた人々だったら、今回のオリパラ騒動についても当然「オリパラをやらない理由よりもやれる方法を考えよう!」と、オンラインサロンとかClubhouse(あっという間に廃れた感があるが)で怪気炎を上げているかと思えばそうでもないようだ。それどころか、SNSのどこを拾っても、そうした議論を展開している人は見当たらなかった。探し方の問題かもしれない。

一方で、推進派の主張の中にも「やらない理由じゃなくてやれる方法を考えました!」と言うものは見当たらなかった(繰り返すが、決してナンパの類ではない)。まあ懸命な人は動機がそういった考え方のフレームワークであっても、それを表に出す人はいない(逆に言えば表に出しちゃう人は「意識高い系」に属している可能性が極めて高い)。

仕事で「やらない理由よりもやれる方法を考えましょうよ」とか言われたら、まずはオリパラ開催反対派か推進派を訊くようにして、反対派と答えたら、「じゃああなたはなぜ、オリパラをやらない理由ではなくやれる方法を考えようとしなかったのですか?」と切り替えしてみよう。以降、コロナ収束後もあなたからソーシャルディスタンスが消滅することはないこと請け合いである。

ちなみにおれは開催するのであれば、「ハイパーオリンピック」(eスポーツ)にすればいいんじゃないかと思っている。

3:選手のメリット

次に選手にとってオリパラが何かしらのメリットがあるかどうかを考えてみたい。

通常のオリパラやらワールドカップであれば、出場して活躍することは、選手のみならずその競技の知名度を高め、業界の活性化につながることは間違いない。キンメダル(カネと読まれては困るのであえて漢字を使わない)でも取ろうものなら、その選手は地元の英雄となり、選手の通った学校やスポーツ教室、行きつけの惣菜屋のおばちゃんまでもが注目される。残念ながらどんなに選手の行きつけでも風俗店については注目されることはないのだが、まあそれはさておき、なぜそこまで評判になったかというと、世界の強豪に伍して(もっと言えば格上と)戦ったという前提があるからで、高い実力が純粋に評価されたからではない。なぜならキンメダルは相対評価の結果だからだ。世界記録を出してもメダルをとれなければ、平凡な記録によるキンメダルよりも評価されない。知名度の高い競技であればいざしらず、そうでない競技の場合は記録の価値の置き方が世界記録くらいしかないから、人々は勢い、順位という相対評価でしか判断できない。

一方で今回のオリパラは有名選手の誰が出場辞退したとか、会期中にコロナ感染で出場できなかった、とかそういったトラブルが発生するであろう。これは前述の相対評価の前提であった「世界の強豪に伍して」が崩れる可能性があるということだ。つまり、キンメダルを獲っても「まあ、あの選手が出てなかったしねー」という評価や揶揄につながりかねないのだ。それならそれで、タイムや得点に注目すればよい話だが、やっぱり知名度の低い競技については絶対評価の基準がわからないので、正当に頑張りが評価されないのは同じだ。

成績の他にも雑な感染対策のせいでコロナに感染するリスクも高そうだし、感染したときには少なからずバッシングを受けることもあるだろう。オリパラ反対派の過激派が出場を辞退しなかったことについて意味不明の誹謗中傷を選手に向けたことが話題になったのは周知の通りである。勝っても正当に評価されず、それ以外でも常に批判を浴びるリスクが伴う。アスリートは誰かのためではなく自分のために競技を続けているのだから、特にそうした声を気にする必要はないと思うのは外野の意見である。「お父様、お母様、三日とろろおいしゅうございました」の例を引くまでもなく、周囲からのプレッシャーは選手に大きな影響を与える。まして10代、20代の選手も多く、競技以外のことをよく知らぬ若者も多いだろう。日本では専門バカを育成する傾向があって、それは学者だけではなく、アスリートも同じだ。まだまだ成長の途上にある少年少女、それが専門バカであればなおさら、こうしたプレッシャーをうまく受け流したり、誹謗中傷をものともせずに心健やかに生活するのは、なかなか難しいことだと思う。

とはいえ、どんな形でさえオリパラに出られればいい、というオリパラ至上主義的な選手がいたのであれば、これらのデメリットを補ってあまりあるメリットを感じるのかもしれない。

4:無観客の是非

コロナ感染対策として無観客が検討されているというが、開催1週間前でその議論がまだ決着していないというのがすごい。チケット販売があったのは2019年である。そして渡航の際には14日間の隔離措置が必要となっているわけだが、無観客になるにせよそうでないにせよ、今更言われても困るというのが全員の本音であろう。

カネがほしい国及び開催委員会にしてみれば、チケットの払い戻しはやむを得ないが(これだって当初は払い戻ししない方針だったという話もある)無観客だと渡航者がいなくなり、あてにしていたインバウンド収入がなくなる。これは避けたい。1回の観戦チケット料金よりも、滞在費のほうがカネが落ちるから、当然の考えである。ところが早々と開催断念とか無観客で実施としてしまうと、旅行代金についてもキャンセル料がかからずホイホイキャンセルされてしまうから、このタイミングまで引き伸ばすことによって、観戦できるかもしれないし、キャンセル料が発生するよりは旅行に行こう、というアホな渡航者を釣る作戦に出たというわけだ*3。まあ観戦と感染は紙一重HAHAHAと森前会長であれば意にも介さないだろう*4

それにしても無観客なのは競技場を使った場合であって、マラソンや自転車ロードレース、トライアスロンはどうするのだろうか。これまた政治家得意の自粛という言葉で乗り切るのだろうか。ボランティアも辞退者が多く、観客数が当初想定よりも少ないとはいえ、沿道のスタッフ数は定員を充足できるのだろうか。ブラックバイトならぬブラックボランティア、さらにはオリパラに尽くさない人は人ではないばりのオリハラ(オリパラハラスメント)にならないことを切に願うばかりだ。

総括

総じてオリパラをめぐる議論や運営の実態を見るにつけ、空回りをしている印象しかなく、レガシーレガシーと唱える政治家はもはや滑稽でしかない。彼らは「レガシー」を常に良い意味で使っているようだが、実際は良し悪しの別のない言葉なので、このオリパラ狂想曲ともいえる昨今の状況は、(すぐに風化しないで歴史に残るのであれば)確かにレガシーとなることは間違いない。それが良い意味でのレガシーなのか悪い意味でのレガシーなのかは歴史の審判を待つのみであろう。それが1秒後なのか1年後なのか、はたまた遠い未来のことなのかは誰もわからない。

そしてときどきでもいい。この騒動のずっと前に、今となってはレガシーにすらなれなかった、ザハ・ハディド女史による国立競技場デザインや佐野研二郎によるロゴ、プレゼン資料のデザイン盗用騒動があったことを思い出してほしい。

*1:あくまでも個人の見解です。

*2:あくまでも個人の見解です。

*3:あくまでも個人の見解です。

*4:あくまでも個人の見解です。