ボードゲームの雑感「宝石の煌めきの貴族たち(1)」

対応プレイ人数の関係で避けていた宝石の煌めきをようやく購入して早速プレイした。短時間で収束するゲームで感触は悪くなかったが、ゲームの世界観をそれなりに重視するおれとしては、ゲームのメインである貴族タイルに目が向いた。世界史好きで、塩野七生の影響からルネサンス期のヨーロッパに関心を持つおれとしては、ぜひとも貴族タイルの人物を明らかにせねばと思い立ったわけである。

そんなわけで貴族タイルの人物を紹介していくわけだが、本人特定が容易であった順番に解説していくことにする。後半に行くにしたがって特定が難しかった、あるいは確度に自信が持てない貴族である。また、日本語版では「貴族タイル」となっているから、ここでは便宜上貴族と言っているが、中には王族も含まれているし、単なる官僚もいるので、著名人くらいの扱いが相当であろう。

貴族タイルは全部で10枚。今回はそのうちの5枚、男性陣を紹介する。というよりも、女性陣はいずれも特定が難しい人物ばかりであった。

ニッコロ・マキアヴェッリ

f:id:Yochida:20211118160941j:plain

マキアヴェッリ
(1469-1527)

この貴族、マキアヴェッリじゃね?となったことからこの企画が始まった。同時に「なぜにマキアヴェッリなのか?」とも思った。以下、簡単にマキアヴェッリの紹介。

ニッコロ・マキアヴェッリの肖像 サンティ・ディ・ティト ウフィツィ美術館

catalogo.uffizi.it

フィレンツェに生まれる。ロレンツォ・デ・メディチが僭主となったフィレンツェの華やかな時代とその後の反動的な混乱期を体験。対外的にもフィレンツェが難しい立場に立たされている時期に第2書記局の書記長に立候補して当選。ささやかではあったが常備軍を組織したり*1外交の失策の尻拭いに奔走するなど、フィレンツェのために尽くすも、メディチ家の復帰後に、その政府転覆を図った若者のメモから関与を疑われ、逮捕、投獄される。メディチ家から法皇が選出されたことによる恩赦で釈放された後(とはいえ莫大な保釈金が必要であった)、フィレンツェ郊外に引きこもり、農業の傍ら執筆活動に入る。マキャヴェリズムの元となった君主論や政略論等の政治に関する著作のみならず、喜劇も書き、好評を博した。作家として名をなした後も国政への復帰を模索していたが、それは叶わなかった。

ブラック企業に勤める名ばかり管理職の悲哀を感じる人物である。

ヘンリー8世

f:id:Yochida:20211118160944j:plain

ヘンリー8世
(1491-1547,在位1509-1547)

次にわかりやすいのはヘンリー8世。飲み屋に行くと大抵客か店側のスタッフに似た顔の人間がいるものだ。シェイクスピアの劇もあるので、世界史に疎くても名前だけは知っている人もいるかもしれない。

ヘンリー8世 ハンス・ホルバイン ウォーカー・アート・ギャラリー

www.liverpoolmuseums.org.uk

イングランド王。親父は薔薇戦争(ローゼンケーニッヒの舞台である)を終わらせたヘンリー7世。ヘンリー7世が国内外の安定に尽力し、経済の立て直しに功があったため、十分な基盤を受け継いだはずだが、宮廷の浪費で万年財政破綻を招き、修道院から金を搾り取るために修道院解散令を発布。また生涯6回結婚をしているが、最初の結婚生活20年あまりを経た後、妻の侍女に乗り換えるため離婚を決意するも、カトリックは離婚がご法度*2。なのでカトリックこの野郎とばかりにカトリックを離脱、イギリス国教会を設立してイギリスの宗教改革を行った*3。そうまでして再婚したアン・ブーリンとは後のエリザベス1世となる子供を設けたが、結局は姦通罪でアンを処刑することとなる*4。3番目の妻はアンの侍女(侍女に手を出す癖があるようだ)だが出産後に死亡。4番目は政略結婚であったがすぐに離婚。5番目はアンと同様に姦通罪および反逆罪で処刑。最後の妻は処刑されることもなくヘンリーの最期を看取ることになる。

ま、なんだかんだやりたい放題した王だったようだ。

フランソワ1世

f:id:Yochida:20211118160947j:plain

フランソワ1世
(1494-1547,在位1515-1547)

次はフランス王。ヘンリー8世ほど有名ではないが、レオナルド・ダ・ヴィンチパトロンとして彼を保護し、一説によればその最期を看取ったと言われる。

フランス王、フランソワ1世 ジャン・クルーエ ルーヴル美術館

collections.louvre.fr

フランソワ1世は1歳を過ぎた頃に早くも父親を亡くし、爵位を継いだ。その後従兄弟叔父(父親の従弟)であったフランス王のルイ12世の崩御により、フランスの王位をも継いだ。フランスはこの時代、ハプスブルク家が支配する神聖ローマ帝国(ドイツ)とスペインに挟まれ*5、苦境に陥っていた*6。そのためフランソワ1世はキリスト教を報じる国家としてはあるまじき、イスラームのスレイマン1世と結び、オスマン帝国神聖ローマ帝国の背後を脅かすよう仕向けた。その上で国としてはイタリア方面に活路を見出すべく、先々代のシャルル8世のイタリア政策を継続。シャルル8世はイタリアで手痛い反撃を食らっていたが、それでもイタリアに勢力を伸ばさなければならなかったのだ。が、ほどなくしてカール5世に敗北して捕虜となる。しかしイタリアでカール5世の勢力が増すことを嫌ったローマ教皇と利害が一致し、カール5世と結んだイタリアを放棄する条約を釈放後に破棄し、いろいろと嫌がらせをするも、カール5世がローマ略奪によって教皇をビビらせたため、最終的にイタリアへの介入を断念した。対外的には残念な国王ではあったが、ダ・ヴィンチを含むイタリアの芸術家を保護したり、ラテンアメリカの支配を確立しつつあったスペインへの対抗として、北アメリカの覇権を確立すべく、アメリゴ・ヴェスプッチの後援や探検隊の支援も行った*7

ちなみに身長は巨大で2メートルもあったらしい。

カール5世(カルロス1世)

f:id:Yochida:20211118160950j:plain

カール5世(カルロス1世)
(1500-1558,在位1519-1556(神聖ローマ帝国),1516-1556(スペイン))

さてここからは人物の特定がややはっきりしないパートに入る。まずは神聖ローマ帝国皇帝でありスペイン王でもあるカール5世(カルロス1世)である。貴族タイルは横顔しか見えないし、ハプスブルク家の特徴である猪木のごとき顎もはっきりしない。これでなんでカール5世と判断したのかと言われたら、ヘンリー8世、フランソワ1世、後述のスレイマン1世ときたら、この時期の国王としてカール5世であろうという予測がつくし、もともとオーストリア大公であったハプスブルク家を暗示するように、背後の旗が赤と白であったためである。なお貴族タイルのモチーフとなったと思われる以下の肖像画は、巨匠ティツィアーノが描いたオリジナルを元にパントーハが描いたもの。貴族タイルの胸元に丸いペンダントがあるのと、ひげの色から、イラストレーターはティツィアーノの方ではなくこちらを参照したものと判断した。

皇帝カール5世 フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス プラド美術館

www.museodelprado.es

カール5世は父親の死によって幼くしてブルゴーニュ公となり、フランス、ベルギー、ネーデルラント(オランダ)、ルクセンブルクにわたる広大な領地を継承。また十代半ばでスペインを治めていた、母方の祖父の死去によってスペイン王となる(これによりカルロス1世となる)。その数年後、フランソワ1世とのえげつない買収合戦の末に神聖ローマ帝国の皇帝に選出され、カール5世となった。おりしもルターによる宗教改革が始まる頃であり、スペイン王としてカトリックを擁護する立場にあったことからルターを追放。処刑されなかったことにより、生き延びたルターによる運動が広がりをみせ、プロテスタントが各地に広がることになった。このことが在世中に国内の宗教戦争を引き起こすことになり、ひいては翌世紀の三十年戦争へとつながっていくことになる。やっちまったなーと呟いたかは定かではないが、ある意味、その後の欧州史の激動の引き鉄を引いた人物であった。その後はフランソワ1世との対立やオスマン帝国との対立、前述のような宗教戦争への対応で神経をすり減らし、55歳のときに自ら退位。スペイン、ネーデルラントまわりの領地は息子のフェリペ2世へ、オーストリア神聖ローマ帝国まわりの領地は弟のフェルディナンド1世に譲り*8、スペインの修道院に隠棲。58歳で死去。晩年は長年の過食・痛飲からくる痛風にも悩まされていたらしい。

ちなみに広大な領地を治めていたことから、彼の肩書は70以上も称号がつく。バンコクの正式名称どころの騒ぎではない。某野球人のようにヘイ、カール!と呼んでも不敬罪に問われることのない現代に生きる喜びを噛み締めよう。

レイマン1世

f:id:Yochida:20211118160953j:plain

レイマン1世
(1494-1566,在位1520-1566)

オスマン帝国の最盛期を現出させ、法を整備し、厳格であったことから立法者とも呼ばれるスルタン(皇帝)。スレイマン大帝とも呼ばれる。ヘンリー8世、フランソワ1世、カール5世というヨーロッパ側の君主ときたら、当然それに釣り合う人物としては、イスラーム側としてはこの人物しかいない。なお引用した肖像画トプカプ宮殿美術館のwebサイトでは公開されておらず、やむなく美術館の特設サイトを引用元とした。ページ中段あたりに肖像画が見える。

レイマン1世 不明 トプカプ宮殿美術館

www.momak.go.jp

レイマン1世は難攻不落のコンスタンティノープルを陥とし、ヨーロッパへの足がかりを築いたメフメト2世を曽祖父に、統治を安定させた祖父バヤジット2世、西アジア方面に勢力を伸ばしてメッカ、メディナというイスラームの聖地を傘下に治めて名実ともにイスラームの盟主となったセリム1世を父に持ち、かつ若くして帝国を引き継いだ、サラブレッドの上をいくロイヤルブレッド((c)山崎製パン)とも言える人物である。スレイマンは対外的にはハンガリーへの進出、東地中海の交通の要所のロードス島征服、イラク方面への勢力伸長を成功させ、海戦でもスペイン・ヴェネツィア・ローマ法皇庁の連合艦隊を撃破、東地中海、紅海、ペルシア湾制海権を確保してインドとヨーロッパの頭越しの交易を容易にさせなかった。また表立った軍事行動以外にも神聖ローマ帝国内のプロテスタントへの資金提供によって宗教対立を激化させたり、フランスと結ぶことによってヨーロッパの東方への圧力を強めたりした。国内に目を向ければ広大な領土の維持のための法と官僚機構を整備した。これが立法者たる尊称の理由だが、一方で愛妾を皇后にするという極めて異例なことを実行し*9後宮が政治に介入する端緒を作り、作り上げた官僚機構が腐敗する原因を作ってしまっている。晩年はそうしたことが原因で政争が絶えず、息子の反乱、粛清、皇后の死などが相次ぎ、ハンガリーへの遠征中に死去した。

おれはかつてこの時期の欧州史において、どちらかというとイスラムびいきであり、スレイマンに相対的な好意をもっていたが、塩野七生の「海の都の物語」「イタリア遺聞」によって、完全にスレイマンの株が落ちてしまった。同じ作家の「ロードス島攻防記」である程度持ち直しはしたが。

今回はここまで。次回に続く。

*1:今でこそ常備軍は常識だが、当時の都市国家の軍の中心は傭兵であり、軍を常備化するような発想はほとんどなかった。

*2:白い結婚と言われる、お互いに肉体関係を持たない夫婦生活であれば(そしてそれを証明できれば)離婚は可能であったが、さすがに20年以上の婚姻生活で子供も生まれているので、白い結婚を理由とするには無理があった。

*3:その過程でトマス・モアも処刑。もっともユートピアで自由・平等を描いたモア自身も異端審問で何人も処刑した野郎のため、因果応報と言えるかもしれない。

*4:ちなみに最初の妻との子はスペインのフェリペ2世と結婚し、苛烈な宗教弾圧をしたことで有名なメアリー1世である。

*5:しかもこの頃の神聖ローマ帝国皇帝とスペイン王は同一人物であるカール5世(カルロス1世)であるため、挟み撃ちは共闘どころの騒ぎではなかった。

*6:神聖ローマ帝国の皇帝は選挙で選ばれるため、スペインのカルロスが帝位につくのを阻止するために自身も皇帝に立候補していたが、買収用のカネがカルロスに及ばず、敗れた。

*7:結果としてフランス領カナダの礎を作り、カナダの公用語にフランス語が採用される原因を作ったのである。

*8:このときから、ハプスブルク家はスペイン=ハプスブルクオーストリアハプスブルクへと分かれる。スペインの方は1700年に断絶するが、オーストリアのほうは男系は既に絶えているが、1918年の第一次大戦オーストリア=ハンガリー帝国が滅亡するまで君主の地位にあり、その家系は現在も続いている。

*9:過去にスルタンの皇后が敵に捕らわれ屈辱的な扱いを受けたことから、オスマン帝国ではスルタンの妻であっても対等の立場である皇后ではなく、身分は奴隷であって、万が一虜囚として辱められてもスルタンの対面が傷つくことはない、ということが伝統となっていた。