ボードゲームの雑感「宝石の煌めきの貴族たち(2)」

前回に引き続き、宝石の煌めきの貴族タイルの人物を特定し、その略歴を述べていこう。前回は男性ばかり5名だったが、今回は残りの5名、すべて女性である。男性に比べて本人特定が困難で、いまだに確信がもてない人物も含まれていることは事前に了承されたい。

カトリーヌ・ド・メディシス

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カトリーヌ・ド・メディシス
(1519-1589,在位1547-1559)

本人特定が難しかった女性陣の中で、カトリーヌ・ド・メディシスはまだわかりやすいほうだ。なぜならタイルに描かれているのは喪服であったからだ。一見デブのおっさんに見えるが、おっさんはベールなど被らないし、この時代に喪服の女性といったら、まずこの人物が思い浮かぶ。決定的だったのが、wikiメディアに元ネタと思われる絵があった。

サン=バルテルミの大虐殺におけるカトリーヌ・ド・メディシス エドゥアール・ドゥバ=ポンサン ロジェ・キリオ美術館

commons.wikimedia.org

 メディシスという名前から想像がつく通り、フィレンツェを支配していたメディチ家の出身(メディシスはフランス読み)。祖父はフィレンツェルネサンスを体現した大ロレンツォことロレンツォ・デ・マニーフィコ(これもボードゲームになっている)。ちなみにカトリーヌのイタリア名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチであり、偉大な祖父の血をひいていることを意識してかどうかわからないが、同じように芸術を愛好し、熱心にパトロンとして資金を提供した。
 両親はカトリーヌの誕生とほぼ時をおかずして死去。親戚であった枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後の法王クレメンス7世)の保護を受けてフィレンツェで育つが、イタリア戦争のさなか人質として尼僧院に幽閉、救出後にローマに渡った。この頃ローマは、カール5世によるローマ略奪によってクレメンス7世が屈服させられていたことから、カール5世による抑止としてフランスの力を必要としていた。そこでクレメンス7世は、カトリーヌをフランス王フランソワ1世の次男であるアンリ2世と政略結婚させる。が、その直後クレメンス7世が死去し、次の法王が結婚に伴う持参金をもたせるのを拒否したため、舅のフランソワ1世に「この少女は素っ裸で私のところにきた」と嘆いたという。
 こうした背景から、フランス宮廷内では非常に肩身の狭い思いをしていたに違いない。それでも元来聡明であり、快活であったため、宮廷内に影響力を浸透させていくが、アンリ2世はかなり年上の愛人の元に入り浸りであり、なかなか子供を産むことができないカトリーヌの立場は不安定であった。まじないめいた不妊治療(のようなもの)をいろいろと試し、ようやく子供を授かると、最終的には10人の子供を産むことになる。夫のアンリ2世は二人が結婚して数年後に兄が死亡したために王位継承者となっていた。1547年にフランソワ1世が亡くなるとアンリ2世はフランス王となり、カトリーヌは王妃となる。
 アンリ2世の統治は10年余続いたが、スペイン王フェリペ2世とカトリーヌの娘との結婚式の式典で開催された馬上槍試合で顔面に槍を突き立てられ、その傷が元で死んでしまう。このときよりカトリーヌは喪服を常に着用するようになる。王位は息子のフランソワ2世が継いだが、カトリーヌは幼い王の摂政として実権を握るも、わずか1年で中耳炎によりフランソワ2世が死ぬ。次の王のシャルル9世の治世においても続けて摂政の座についた。
 この頃のフランス国内はギーズ家とブルボン家の2大勢力が、それぞれカトリックユグノーカルヴァン派の新教徒。乞食野郎という意味でカトリック側による蔑称である)を味方につけて争っていた。カトリーヌは国内の混乱を治めるために宗教的融和を図るが、ギーズ家がヴァシー村の虐殺を引き起こしてしまう。ここに30年にわたるユグノー戦争がはじまる。またスペインからの干渉(スペインは熱烈なカトリック)への対応に苦慮しているさなか、ユグノーによる宮廷襲撃が発生、融和を諦める。表向きにはその姿勢を崩さなかったが、ブルボン家のアンリ*1と娘の結婚式の際に出席したユグノーをギーズ家によって大虐殺されてしまう*2。これにより一層対立が激化し、混乱が広がっていく。さらにこの2年後にシャルル9世が死ぬとアンリ3世が即位。アンリ3世は既に成人していたのでカトリーヌは摂政の地位から退き、一定の影響力を保持しつつも次第にアンリ3世を制御しきれなくなる。やがてアンリ3世(国王)、ギーズ家のアンリ(カトリック側)、ブルボン家のアンリ(ユグノー側)による3アンリの対立、ギーズ公によってパリを追われ、その暗殺による混乱の収束が見えた頃、カトリーヌは69歳の生涯を閉じた。カトリーヌの死からわずか8ヶ月後にはアンリ3世も暗殺され、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン家のアンリが王に即位してブルボン朝が始まった。

ここまで実子に先立たれてしまっては、喪服を脱ぐ暇もなかったに違いない。

イサベル1世

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イサベル1世
(1451-1504,在位1474-1504)

さてお次はこの貴族タイル。特定するのが非常に難しいが、王冠をかぶっていることから女王であろうということはなんとなくわかる。その割に服装が簡素すぎる点がひっかかる点だった。それでもこの時期に王冠を戴いた肖像はイサベル以外にはあまり見受けられないので、この人はイサベルであろう。

イサベル1世(カスティーリャ女王) フェデリコ・デ・マドラーソ・イ・クンツ プラド美術館

www.museodelprado.es

 イサベルはカスティーリャ王とポルトガル王族の間に生まれたが、幼い頃に父が死んでしまったため、王位を継いだ異母兄のエンリケ4世に弟ともども追放され、辛苦のうちに生活を送ることとなった。やがてエンリケ4世の女児が生まれる。待望の子供であったが、不義の子である疑いがあったため、エンリケ4世に反発する勢力にイサベルの弟アルフォンソ(11歳)が担ぎ出された。しかしその3年後アルフォンソが死ぬと反エンリケ派はイサベルを前面に押し立てようとする。エンリケ4世はイサベルをポルトガルに嫁がせることでカスティーリャポルトガルの併合、そして厄介払いという一石二鳥を狙ったが、イサベルは事前にその企みを察知し、一足早くアラゴン王国のフェルナンド王子と婚約する。激怒したエンリケ4世によってイサベルは幽閉されるが、フェルナンドの手によって救出され、無事に結婚。その数年後エンリケが死ぬとイサベルがカスティーリャ女王として即位、続けてアラゴン王国でもフェルナンドがフェルナンド2世として王位を継ぎ、ここにカスティーリャアラゴン連合王国が成立する。
 二人は共同統治者として法律・行政・税制等の整備、異端審問所の開設を行いつつ、スペイン国内に残るイスラム勢力を追い落とすレコンキスタを進めていく。そしてついに1492年にグラナダ(これもボードゲームになっているし、グラナダにある宮殿がアルハンブラである)を陥とし、レコンキスタを完成させる。またイサベルはポルトガルの海外進出に対抗すべくコロンブスを手元に置いていたが、レコンキスタの完成によって王室に金銭的な余裕ができたために本格的な援助を開始。同年のうちにコロンブスアメリカ大陸を”発見”することになる。
 フェルナンドとの間には5人の子供がいたが男児は1人で、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世の娘と結婚したが、その後まもなくして死亡。長女はポルトガルジョアン2世に嫁いでいたが寡婦となって出戻り、再びポルトガルのマヌエル1世に嫁ぐも、長男と前後して死亡。2女もまたマクシミリアン1世の息子の元へと嫁ぎ、後にカール5世(カルロス1世)となる子供を設けるも、心を病み40年に渡り幽閉される。3女は長女亡き後マヌエル1世に嫁ぐ。4女はイングランド王太子に嫁ぎ、死別後同じくその弟のヘンリー8世と結婚。後に離縁された(詳しくは前回のヘンリー8世の項を参照されたい)。イサベルは1504年に死亡するが、フェルナンドはあくまでもアラゴン王国の王であり、カスティーリャの王位を継いだのは2女のフアナであったが、前述の通りこの後で精神を病み幽閉されていたため、名目上の統治者ではあったが、フェルナンドの死後は孫のカルロスが正式な後継者となり、ここにようやくカスティーリャアラゴン連合王国スペイン王国として16世紀を牽引していくことになる。

コロンブスパトロンとして有名だが、一方で狂信的なカトリックとして異端審問に血道を上げていた。主としてターゲットはカトリックに改宗したイスラム教徒、ユダヤ教徒であったが、イスラムの排斥および金貸しであったユダヤ人の債務解消、財産接収といった実利目的でもあった。こういう奴をおれは好かん。

アンヌ・ド・ブルターニュ

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アンヌ・ド・ブルターニュ
(1477-1514,在位1488-1514(ブルターニュ),1591-1514(フランス))

ぱっと見古代エジプト人かと思ったが、この特徴的な被り物によって特定できた人物である。日本ではあまり馴染みのない人物かと思うが(まあ前回のイギリス・フランス・ドイツ王も、世界史を知らない人には誰だ、という話ではある)、フランスでは大変人気のある歴史上の偉人とみなされている。

アンヌ・ド・ブルターニュ ルイジ・ルビオ ヴェルサイユ宮殿

collections.chateauversailles.fr

 アンヌ・ド・ブルターニュはその名の通りブルターニュ公爵家に生まれた。ブルターニュ公国はフランスの北東の端、棘のように大西洋に突き出ている半島を領地としていた。そのため、イギリスの喉元にチクリと針を刺すような形になっており、フランス、イギリスともにこの地を重要視していた。当然両国ともブルターニュの領主には自分の息のかかった人物を送り込もうとしており、ブルターニュ公爵は両国との関係性をいかに保つかという課題を常に抱えることとなる。
 この頃のフランスは国王のルイ11世が王権を強める動きをみせており、諸侯の反発を招いていた。この動きに同調していたアンヌの父*3であったが、ことごとくルイ11世、その次のルイ8世に抑えられてしまう。さらに悪いことに公爵には跡継ぎの男児がいなかった。公爵は後継としてアンヌを指名し、ブルターニュとお近づきになりたい勢力(フランス王家以外)との婚姻政策を進めるが、フランス王との戦闘に敗れたためにブルターニュ公はフランス王の了承なしにアンヌを結婚させることができなくなってしまう。これはつまりフランス王家またはフランス王家に従順な諸侯以外との婚姻を認めず、結果的にブルターニュをフランス王家に実質的に帰属させるものであった*4。しかしせめてもの抵抗なのか、アンヌはこの約定を無視する形でハプスブルク家のマクシミリアンと結婚をしてしまう。もちろんフランス王はこれを許すはずもなかった。折しもブルターニュを支援してくれそうな勢力は他の案件で手一杯であり、まともな援軍が期待できない状況でフランス王に勝てるはずもなく、ローマ教皇ハプスブルク家をも巻き込んだ外交戦を展開するも、結局はマクシミリアンとの結婚は無効とされ、シャルル8世と結婚することになった。この結婚に際しては、アンヌとシャルルのいずれかが死んだら、残された方がブルターニュ公位を継ぐことが定められた上、男児が生まれなかった場合はシャルルの後継者とアンヌは結婚しなければならないという条件がつけられてしまった*5
 シャルル8世と結婚したということはアンヌはフランス王妃になったということである。しかし代わりにブルターニュ女公を名乗ることは禁止された。シャルル8世はナポリ王国の王位継承権を主張してイタリア戦争を引き起こす。ナポリ王にはなれたものの、イタリアへのフランス進出を快く思わない各国の思惑から、長居をすることなくイタリアから帰還。そしてほどなくして鴨居に頭をぶつけて死亡する(笑ってはいけないが…w)。先の約定により、アンヌは次のルイ12世と結婚することになったが、これを期に再びアンヌは再びブルターニュ女公を名乗れるようになった。ただ、実権はほぼ持たず、夫の命に対して承認を与えるだけではあった。ルイ12世との間には7人の子を設けたが、成人したのは女児のみだった。フランスでは女児に継承権がなかったが、アンヌ自身がそうであったようにブルターニュ公国では問題なく、上の娘のクロードはブルターニュ女公の後継者であった。アンヌはフランス王妃ではあったが、やはり思うところがあったのか、クロードをハプスブルク家のカール、後のカール5世と婚約させる。しかしこれはフランスにとってみれば、ブルターニュと宿敵のハプスブルク家が手を結ぶことになるので、当然承服できなかった。カールとの婚約は破棄され、結果的に夫の従兄弟の子であるフランソワ(後のフランソワ1世)と婚約することとなった。アンヌ自身はクロードのフランソワとの結婚を目にすることなく、度重なる妊娠と流産で気力、体力ともに衰えていたところの腎臓結石の発作で死亡した。遺言によりその遺体は分割され、その心臓は両親の墓碑のもとに納められた。

故郷のブルターニュを強大な権力から守るべく奮闘した姿が人気の所以であろう。こういうところは日本もフランスも変わらないようである。

エリザベート・ドートリッシュ

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エリザベート・ドートリッシュ
(1554-1592,在位1570-1574)

アンヌ・ド・ブルターニュ以上に誰やねんという人物ではあるが、ルーヴルにある肖像画を見てしまうとこの貴族タイルはエリザベート以外には考えられないだろう。資料が少なく、記事を書くおれ泣かせの人物である。

エリザベート・ドートリッシュ フランソワ・クルーエ ルーヴル美術館

collections.louvre.fr

 エリザベート神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世の皇女でハプスブルク家の人間である。マクシミリアン2世には16人の子がいたが(うち成人したのは8名)、性格的にも似ているエリザベートを特に気にかけていたという。マクシミリアン2世は知的で教養深く、カトリックを擁護する神聖ローマ帝国の皇帝という立場でありながらプロテスタントにも寛容であった。このことがフランス王シャルル9世の母親にして摂政であったカトリーヌ・ド・メディシスの目を引くことになる。カトリーヌはこの時期カトリックユグノーの融和を諦めていたが、それでもどちらかに肩入れすることの危険を感じていた。そこで白羽の矢をたてたのがエリザベートだった。息子のシャルル9世はまもなく20歳、エリザベートは16歳、カトリックではあるがプロテスタントにも寛容なマクシミリアン2世の子女である。加えて神聖ローマ帝国オーストリアハプスブルク)と結びつきを強めることはスペイン(スペイン=ハプスブルク)への牽制にもなる。かくしてこれ以上はないというくらいの政略結婚の見本とも言うべきカップルが誕生した。
 しかしシャルル9世の死により新婚生活は3年あまりしか続かなかった。その後エリザベートは生地のウィーンに戻り、シャルル9世の弟との結婚を父から打診されるも拒否、さらにスペインのフェリペ2世からの求婚も拒否した。1580年には自ら土地を購入して修道院を建て、胸膜炎で死ぬまで貧しい人々の救済に尽くしたという。

…というと美しい精神の持ち主であるように思えるが、信仰としてはカトリックを絶対としていたため、プロテスタントの諸侯には手に口づけ(挨拶の儀礼)をさせなかったという。それでもシャルル9世と義母のカトリーヌが関与したと言われるサン=バルテルミの大虐殺の犠牲になったプロテスタントを悼み、プロテスタントの命を救うよう嘆願を出しているから、善良ではあったのだろう。

メアリー・スチュアート

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メアリー・スチュアート
(1542-1587,在位1542-1567)

最後はこの人。これはもう最後まで判断がつかなかった。BGGのフォーラムでも「メアリー・スチュアートじゃなくて、エリザベス1世じゃね?」という疑問を持つ人が多かったようだ。おれも最初はエリザベス1世説を支持していたが、エリザベスにしては服装が地味であることが気にかかっていた。赤い服装であることから、メアリー1世(いわゆる血のメアリ=ブラッディーメアリー)かとも思ったが、赤毛ではないし、冗談のような襞襟(エリザベスカラー)もないため、もっと可能性は低そうだ。いったいどっちなんだ…と思っていたら、映画「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」では、襞襟こそないものの、裁判や処刑のシーンではシンプルな赤いドレスをまとっているのを発見。これをイラストレーターが参照したのであれば、なんとなく納得できる。ということで、本ブログの見解としてメアリー・スチュアート説をとることにする。

メアリー・スチュアート 作者不詳 ロイヤル・コレクション(ホリールード宮殿蔵)

www.rct.uk

 メアリー・スチュアートスコットランド王ジェームズ5世とギーズ家(カトリーヌ・ド・メディシスの項で出てきたフランスのカトリック側勢力の雄)出身の王妃の間に生まれた。なお曾祖父はイングランド王だったヘンリー7世であり、この時点でスコットランドイングランド、フランスの王家に連なる出自であることがわかる。しかし生後6日にして父を亡くしてしまい、先に誕生していた子供も夭逝していたため、スコットランドの王位を継承する。もちろん自分では統治できないので、前王位継承順位1位であったアラン伯爵を摂政に擁しての継承である*6
 この頃のスコットランドは(というか1707年の連合王国成立まで断続的に)イングランドと対立しており、スコットランドはフランスと結んでイングランド(国王はヘンリー8世)と戦っていた。スコットランド王が亡くなり、またその数年後にヘンリー8世も世を去ると、次の王であるエドワード6世の祖父で摂政のサマセット公の陰謀でエドワード6世との婚約を迫られたがこれを拒否。激怒したサマセット公はスコットランドに侵攻、アラン伯爵が敗走してしまう。メアリーはフランス宮廷に身を寄せる。そこでフランス王アンリ2世の息子フランソワと結婚、母ともどもフランスとの結びつきが強まり、宗教的にもカトリック色を強めていった*7
 メアリーがフランソワと結婚すると時を同じくしてイングランドではエリザベス1世が即位していた。これに義父であるアンリ2世が「庶子のエリザベスなんぞに継承権ねーよ」と文句をつけたため、これが当然イングランド側の不興を買ってしまう。それからすぐにケチをつけたアンリ2世、翌年には夫のフランソワ2世が続けて死んでしまう。二人の間には子供がいなかったため、フランス王はフランソワの弟に継承された。
 こうなるとメアリーには居場所がなくなり、スコットランドに戻ることになった。この頃のスコットランドプロテスタント(長老派と呼ばれる派閥)による宗教改革が進行中でメアリーには実権はなかった。それでもスコットランドの女王として独身のままでいることは許されない。様々な候補が挙げられたが、スコットランドの孤立化を図るエリザベスや、神聖ローマ帝国とスペインの両ハプスブルク家に挟まれておりイングランドまで敵に回すことができないフランスのカトリーヌ・ド・メディシスの妨害でなかなか婚姻が成立しない。最終的にはイングランドのヘンリー7世の系譜に連なるダーンリー卿との結婚が成立した。しかしこの結婚に危機感を強めたのはエリザベス女王だった。ただでさえヘンリー7世の血縁であるメアリーである。この結婚のためにますますイングランド王位の継承権が強まることになる。しかし国内で力を持っていたプロテスタント側の反発(メアリーもダーンリー卿も宗旨はカトリック)、ダーンリー卿に権力を奪われることになる政治顧問など、この結婚は最初から四面楚歌状態。それに加えてダーンリー卿はクズ男であった。そのためメアリーも急速に冷めていく。二人の間にはジェームズ1世が生まれたが、愛情は蘇らなかった。翌年、ダーンリー卿は何者かに殺害された。メアリーは密かに心を寄せていたボスウェル伯と結婚する。ところがボスウェル伯はダーンリー卿の暗殺の首謀者と見られていたことから、ダーンリー卿のときの結婚以上に味方がいなかった。まもなく反乱が起き、敗れたメアリーは廃位され、イングランドに渡ってエリザベスの庇護を頼った。
 エリザベスにとってメアリーは危険人物ではあったが、対外的には遠縁であり廃位されて亡命してきた薄幸の若き女性(この当時、メアリーはまだ20代後半であった)を粗末に扱うことは得策ではなかった。世間の同情によるエリザベスへの悪評という面もあったが、熱心なカトリックとして知られているメアリーへの扱い如何によって、今は事を荒立てたくないスペインの不興を買う恐れもあった。また、スコットランドに追い返すにしても、彼の地においてメアリーを擁立したがっている勢力は必ずある。万が一そうした勢力がスコットランドの政権を握ることになれば、エリザベスへの遺恨が残るだろう。エリザベスはメアリーをかなり自由のきく立場での抑留状態に置いた(側近としてタルカスとブラフォードという2人の騎士がいたとかいないとか)。その期間はメアリーの死まで19年間も続くことになる。ある意味メアリーにとっては平穏な日々の訪れとも言えたのだが、周囲がその平穏を許さなかった。メアリーはスコットランドイングランド、フランス、スペイン、教皇庁も含めた重要な政治の駒だったからである。
 こうしてメアリーが望んでか望まざる形でかはわからないが、数々のエリザベス廃位の陰謀に関わるようになる。それでもエリザベスはメアリーの処刑の許可を与えなかったが、バビントン陰謀事件*8の発覚により、ついにメアリーが陰謀に関与した証拠があげられたため*9、エリザベスはついにメアリー処刑の執行令状にサインをした。メアリーは裁判から処刑に至るまで毅然とした態度を崩すことがなかったという。断頭台を前にし、イングランドカトリック教徒、息子のジェームズ1世、そしてエリザベス1世を救い給えと祈りを捧げた。死刑執行人はそんなメアリーに対して許しを請い、メアリーは「心から許します。あなたがたがすべての苦しみを終わらせてくれるでしょうから」と応えたという。メアリーの礼服には「En ma fin est mon commencement(我が終わりこそ、我が始めなれ)」という信条が刺繍されていた。メアリーの刑死から16年後、生涯独身で子がなかったエリザベスが死ぬとテューダー朝は断絶し、代わりにメアリーの息子のジェームズ1世がイングランド王としてジェームズ6世となり、スチュアート朝の始祖となる。ここにおいてスコットランドイングランドが初めて同一の王を戴いた。メアリーの死は確かにその後の始まりを切り拓いたのである。

途中からメアリーの話というかエリザベスの話になってきてた。エリザベスといえば高校のときの世界史の教師(嘱託だった)が「エリザベスは良き女王ベス、バージンクイーンと呼ばれた」と解説した後に、おもむろに最前列の女子に向かって「…君はバージンか?」と尋ねたことが忘れられない。

さてこれで10人すべて解説し終えた。まとめてみた感想。もうね、人間関係が錯綜しすぎ。それにフランス人はシャルルとルイ多すぎてわけわからん。女性も今回はそこまで出てこなかったが、各所にメアリーがたくさん出現して、どのメアリーかわからなくなるくらいだ。こうして世界史嫌いが作られるのだと思うが、字面だけではなく肖像画つきで相関図を描いてみると結構理解しやすいので、受験生は試してみると良い。その前に受験生はこんなwebサイトを見ている暇があれば机に向かって勉強すること。

おしまい。

*1:後にアンリ4世となり、ナントの勅令によってフランス国内のユグノーの信仰を認めたことでユグノー戦争を集結させた。ブルボン王朝の祖。

*2:ユグノー不信のカトリーヌがさせたという説もあるが、黒幕は今もって明らかになっていない。

*3:ちなみにこの頃イングランドでは薔薇戦争(もちろんボードゲームのローゼンケーニッヒのモチーフである)の真っ最中であり、ブルターニュ公爵は後に勝利者としてテューダー朝をひらくヘンリー7世を保護していた。

*4:余談だが、こういう回りくどい手段で領地を広げていく陰険なやり方はフィリップ2世を筆頭としてフランス王家に多い気がする。

*5:なお生まれた子供はすべて夭逝した。

*6:メアリーが生まれたために王位継承順位が下がったところにジェームズ5世が亡くなった、実に運が悪かった人である。

*7:イングランドは先のヘンリー8世が離婚問題でカトリックと絶縁していた。こうした宗教的な状況も、その後のメアリーの運命を左右することになった。

*8:イングランドによるカトリック教徒への苛烈な迫害を憎悪した青年とその仲間によるメアリー救出、エリザベス暗殺、諸外国の援助を受けた反乱の企てである。

*9:暗号の手紙のやりとりが決め手になるのだが、このあたりの詳細は実に面白いので、興味のある人は「暗号解読-ロゼッタストーンから量子暗号まで- サイモン・シン著、青木 薫訳(新潮社)」をぜひ読もう。