ゲームの雑感「“名作RPG”に関する5chの掲示板からの考察2 ゲーム性と世界観、自由度のはなし」

ファンタジーやSFといったジャンルの小説のみならず、ボードゲームやテレビゲームにおいて、世界観の描写というものは外すことのできない要素のひとつと言うことができる。アブストラクトゲームの中には純粋に世界観のないもの(チェッカーやヘックスなど)も見られるが、背景となる舞台が存在するものが多いと言って良いと思う。

小説やおとぎ話においては、世界観の描写の多寡や巧拙は別として、十分に語るだけの余地があるため、読者が納得しない問題については作家(ときには挿絵画家)の責任に帰することもできる。しかしながら、そうした余地が少ないボードゲームやテレビゲームにおいて、世界観はどう語られるべきかを、前回紹介した5chの掲示板のやりとりから考えていきたいと思う。なお、前回がすでに4ヶ月も前であることは無視すること。

このスレの前半は、前回見たようにDQ3がいかにクソなのかを熱く語るイキリ君とその他大勢という構図であった。ところがほとんど意見のやりとりといったものはなく、イキリ君は言いたいことを吐き出すだけロッパーすると、満足したのかフェードアウトしてしまう。その後、イキリ君の余波が少しくすぶったあと、以下の書き込みがなされて議論の主体がゲームの設定の話に移っていく。

57 :名前が無い@ただの名無しのようだ:2015/08/12(水) 19:48:26.56 ID:52CSU3PaO
DQ3の何がダメって設定や話が成立していないこと

「人々はバラモスの名前すら知らない」が致命的

この設定のおかげで「バラモス(魔物)=悪」が成立しなくなり、ゲームの多くを占める上の世界を無意味なものにしている

なんでバラモスを人々が知らないだけで上の世界(アリアハンとかがある世界)が無意味になるのか、いまいち理解し難いが、彼の考えを簡単にまとめると以下のようになる。

  • バラモスが悪だと人々が知らないのでバラモス倒しても英雄譚として成立しない
  • そもそもバラモスが悪という描写がない
  • 勇者はアリアハン王の「バラモス悪いやつ」という言葉を鵜呑みにしてバラモスを討伐する、子供の使いみたいなDQ3の物語では英雄譚が成立しない

しきりにバラモスと悪の関係性を証明しろ、証明できないよね、じゃあやっぱりドラクエはストーリーが破綻しているさ~はい論破~というロンパールームシスターズであって、いろいろな意見について決めつけによる封殺をするのはよくないと言っているその当人が、他の意見を認めずに重箱の角をつつくような批判をしたり、「君は○○だとどうして判断できるんだい?」と言って質問をはぐらかすなど、自らの意見を押し通すことに余念がない。前回のイキリ君についておれはそんなに嫌悪感を抱かないが、こうした論破野郎、以下彼の口調からダイ君と呼ぶが、こういう人種は会話するだけムダなので、より嫌悪感だけが引き立ってしまう。ダイ君はバラモスが悪である描写はやまたのおろちボストロールに「バラモスさまー」と言わせるだけでバラモスが黒幕であることを示せると言っているのだが、それこそ陳腐ではないか。

ドラクエの物語の骨格

もともとドラクエファイナルファンタジーとは違い、おとぎ話的な色合いが濃いRPGである(名前からファイナル“ファンタジー”のほうがおとぎ話っぽいが)。アメリカ生まれのRPGというゲームジャンルはウィザードリィに代表されるように難易度が高く、とっつきにくいものであった。これを親切なシステムによって年齢層が低いファミコンユーザー向けにしたものがドラクエである。ゆえにストーリーもまたわかりやすく、平和を脅かす魔物を倒し、さらわれた姫君を助け出す、というおとぎ話の骨格が採用されている。一方でファイナルファンタジーは敵は魔物ではなく人であることが多く、国と国との戦争であったり、裏切りや策謀、人の欲望が生み出したものといったものが物語の根幹をなすため、ドラクエよりもストーリーの掘り下げが行われている*1

話がやや逸れたが、何が言いたいのかというと、ドラクエはおとぎ話であって、おとぎ話は敵に汲むべき事情を与えないということだ。その存在はすでに悪であって、すべては打ち倒すべきものなのだ。ゆえに王が「バラモスは悪」と言ったのならば、その世界ではそれが真理であって、疑うべくもない。それを英雄譚と呼べないと言ってしまうのは、叙事詩ヒロイック・ファンタジーといったものを知らないからであろう。

ゲーム内の演出とゲームの諸要素のバランス

さて5chの議論の流れを追うと、バラモス=悪の証明としてバラモス討伐後にモンスターが出現しなくなることから、バラモスはやはり悪の親玉だったのだ、という意見が示された。ダイ君はもちろんこれを否定する。まあこれについては「バラモスがラスボスというみせかけを作るためだけの演出の一部」であって、おれも根拠薄弱だよなーと言わざるを得ないが、ダイ君はまた別の見解をもっていて、「バラモス討伐後にモンスターが消えたのは結果論であって、バラモス=悪の証明にはならず、逆にその証明がなされないのはDQ3の設定や話がおかしいことの証明になる」と鼻息が荒い。そもそもバラモスを倒した後にパーティーが全滅するような自体が起きてしまっては展開上不自然だし*2、もともとバラモスが最終ボスであるというミスリーディングを意図的に製作者側がしている以上*3、バラモス討伐後にモンスターが出現してしまってはバラモスがラスボスではないことが容易に察知され、ゾーマ登場のインパクトが薄れてしまうではないか*4。5chにおいては、「ゲーム内の演出」と「ゲーム性」、「ストーリー性」等の諸要素を混同しているから、このような不毛な議論になっている

ゲーム内の演出とは、文字通りゲーム内で生ずる様々な現象だ。バラモスを倒したら敵が出現しなくなる、というのはゲーム内演出である。ゲーム開始時に母親に連れられてアリアハン城の前まで自動的に歩くのもそうだし、宿屋に泊まると暗転して朝になり全回復する、というのもゲーム内演出である。一方ゲーム性は定義付けが難しいが、さしずめ「そのゲームのシステム」であり、インターフェイスのわかりやすさ、ゲームスピード、操作性、戦闘システム等が挙げられる。「ストーリー性」はRPGの場合はそのままストーリーと読み替えればよい。またゲーム外の販促CMやパッケージ、説明書も含んだ世界観の演出も含まれる。そしてこれらの要素は当然のことながらゲームのリソース(メモリ、容量、ハードのスペック、2Dでの表現等)という制約を受ける(ゲーム外要素は除く)。この議論ではそれぞれが別の要素を偏重して自分の考えを主張するものだから噛み合っていないのだ。

演出、ゲーム性、ストーリー性の整合性が完璧にとれているゲームならば誰も異論はないだろうが、よくできた小説ですら、これらの整合性が完璧に調和していることはまれだし、ましてや開発期間やメモリ容量といったリソースが厳しく、売上のための広告宣伝も考慮しなくてはならないゲームにおいてはなおさらである。

バラモス=悪であることが証明されなければ設定や話がおかしくなるという主張にしても、別に数学の証明なのではないのだから証明なし=価値なしというわけではない。証明ができなくとも事実である例は枚挙に暇がない(例:人は必ず死ぬということは厳密に証明できないが、永遠に生きている人間が確認できていない以上、今のところは事実である)。バラモス=悪ということを認めれば設定や話に矛盾が生じないのであれば、それが事実なのであろう。理論と現実が食い違っていた場合には理論が間違っているのである。この程度のことをあげつらってゲーム全体あるいは大半が無意味だと言うのであれば、その前にRPGのお約束とも言うべき要素について文句を垂れるべきであろう。なぜアリアハンには強いモンスターがいないのか、強力な武器が売っていないのか、鍵を使って扉を開けたあと、画面を切り替えて戻ると再び閉まっているのは誰が閉めているのか、モンスターを倒すとなぜカネが手に入るのか、宿屋で全回復するのはなぜなのか、ダンジョンの中で見張りをたてて他のメンバーが寝れば、寝たキャラクターは回復するんじゃないのか、カザーブの道具屋から夜に毒針を盗むことができるのは英雄譚としてどうなんだetc.。これら全てにはダイ君の求めるような説明は一切ない。言いがかりレベルの内容ではあるが、ダイ君の問題意識もこれと似たようなものだ。なぜアリアハンには強力なモンスターがいないんだい?その説明がなければDQ3の設定そのものがおかしいことになるんだ、っていかにも言いそうだ。

この話はドラクエだけに限った話ではないのはもちろんである。ボードゲームにしても題材にしたテーマや素材があった場合に、それに沿ったゲームシステムが組み込まれているのは面白さの一端を担う重要な要素(決してそれがすべてではないが)だ。しかし、それに固執するあまりプレイアビリティが低下し、クソゲーどころかゲームにすらならない例は枚挙に暇がない。いわゆる初期のボードゲームによく見られた戦術シミュレーションゲームはデータが多すぎて*5最後までプレイするどころか数ターン、ひどいときにはセットアップで挫折することもあったし、テレビゲームであればその問題が解消されるかと思いきや、ムダにパラメータを増やして煩雑化しただけの某海戦SLGや汽車の運転シミュレータ*6のようにゲームにならない例も多々ある。

 

ゲームとしての自由度とストーリーの関係

もう少し後のスレッドを追っていくと、ダイ君は光の玉についても言及しだす。

103 :名前が無い@ただの名無しのようだ:2015/08/21(金) 09:13:09.17 id:Bph0C2+AO
>>98

ちょっと違うんだな
設定や話が描写と合ってないから「おかしい」と言っているんだ

例えば、ひかりのたま
DQ1に話を繋げるために必須のアイテムだが入手しなくてもクリアできる
この話をすると「自由度」だと言う人が多い
ひかりのたまの矛盾は自由度で棚にあげておいて、話の矛盾はありませんなんて都合のいい話じゃない?(後略)

118 :名前が無い@ただの名無しのようだ:2015/08/27(木) 15:26:41.18 ID:8TVGizvnO
>>116

俺が一致していないことを言うと否定されるんだ
つまり正史以外認められないってことでしょ?

前にも言ったけど結果が一致しない過去話に意味はないし、一致しないなら一致しない理由がなければ意味はない
DQ3がなくてもDQ1は成立しているよね?
それをわざわざ「こうでした」と語る以上、一致させる必要があるんだ

121 :名前が無い@ただの名無しのようだ:2015/08/28(金) 14:46:42.55 id:LYYD4UjzO
>>119

ひかりのたまを入手しなかったら矛盾が生じてゲームが無意味なものになるって重大なバグレベルの話だよ?

途中のやりとりを補完しておこう。ダイ君はどうやらDQ3DQ1につながる物語という点について光の玉を最重要アイテムであると認識しているのだが、ゲームとしての「自由度」として光の玉の入手が必須でないならば、DQ1につながるという建前の前提が崩れるのだからDQ3なんかなかったことになると言っている。入手を必須とするフラグ一つを入れればいいのに、それをしないのはオカシイオカシイと主張しているわけだ。

ここまで来るとなんというか、原理主義者的なニオイを感じてしまい、一歩間違えばスクエニ本社に爆弾を投げ入れかねない雰囲気すら漂っている。RPGは役割を演じるというところがスタートになっているわけで、決して決められたストーリーをなぞることが主眼となっているわけではない。その状況に立たされたときに、そのキャラクターならばどうするかを考え、実行することが重視される。ただそれはRPGの元祖とされるダンジョンズ&ドラゴンズテーブルトークRPGという、ルールブックに基づいて、最終的に人が判断、処理を行うからこそできたことだ。そのため容量が限られているビデオゲームではキャラクターに感情移入させることで、与えられたミッションをこのキャラクターであればこうするに違いないというシナリオにならざるを得なかった。しかしながら、それはゲームデザイナーがモデルと言える解答を用意しているというだけであって、模範解答ではない。ゾーマに光の玉を使おうと使うまいと、キャラクターが最終的に世界を救えば、勇者としての役割はきちんと演じたことになる*7

ゲームとしてのあり方で言えば、光の玉の使用を強制しなかったのはプラスこそあれ、マイナス要素はない。遊び方の選択肢が一つ増えるだけだからだ。ダイ君のようなよくわからない原理主義者が噛み付く点はマイナスといってもよいかもしれないが、ゲームバランスに破綻をもたらすものでもなく、スルーすることで手強いラスボスと戦えるという楽しみもある。DQ3がなかったことになるような発言があるが、現にDQ3DQ3として存在しているわけだし、ゲームの遊び方はルールに沿っている限り、それぞれのプレイヤーの数だけ存在している。逆にストーリーやリアリティを重視するあまりゲーム性が著しく損なわれてしまうのであれば、モノがゲームであるということを考えればそれこそ致命的な欠陥である*8

もちろんゲーム性に影響がないのであればストーリーやリアリティと整合性をとることでゲームとしての完成度は上がるのは間違いない。この場合の「ゲーム性」はプレイヤーが取りうる選択肢の幅である自由度も含んだ概念である。自由度のないゲームであるほど「おつかいゲー」であったり、ただただ展開を眺めるゲームとなるため、よほど話や演出が優れていないとプレイするのも苦痛なゲームとなる*9。逆に自由度が高すぎるとプレイヤーを選ぶゲームとなってしまいかねない。自由度はゲームの面白さを左右しかねない重要なファクターの一つであるといえる。

一方でストーリーもゲームへの没入感、満足感を高める上で重要ではある。特にドラクエのようなRPGであればなおさらであろう。いくらゲーム性が優れていても、ストーリーが破綻したものであれば、そのゲーム性の高さを体感する前にプレイヤーはゲームから離れていくに違いない。ゲームの続編が発表され、ストーリーのコレジャナイ感があって既プレイ勢からそっぽ向かれて、ゲームとしての公正な評価がなかなかなされない、というのはよくあることだ*10

要はゲーム性とストーリーは両輪ではある。しかしながらストーリーが悪い、またはストーリーがなくてもゲーム性が高ければ佳作である可能性があるが、逆パターンは決して佳作たり得ないことは知っておくべきだ。なぜならここで議論しているのは「ゲーム」であるから、ゲーム性を犠牲にしたゲームはゲームではない。

今回は(も)とりとめのない内容となってしまったが、これも記事編集に4ヶ月もかけてしまったからである。うーん。

*1:そのために初期のファイナルファンタジーシリーズはストーリーがお使い主体でほぼ一本道になりがちであった。ちなみにドラクエにおいては4あたりからストーリーの掘り下げ(キャラクターの掘り下げ)が行われるようになった。章立てで導かれし者たちへの感情移入を促す一方、ピサロが最終的にデスピサロになるきっかけを作ってしまったのは人間の欲望によってロザリーが殺されてしまったため、というような敵側の事情についても踏み込んだ描写がされている。

*2:意図的に全滅するならミミックや人食い箱を利用する手はある。詳しくはこちらを参照。

*3:メディアでも裏の世界であるアレフガルドの存在は秘匿されていた。しかし、この了解を破り、アレフガルドの内容を含めた攻略本が出版されたため、エニックスは出版の差し止めの裁判を起こしている。

*4:とはいえバラモスがラスボスではないことのヒントはバラモス戦が通常戦闘曲であること、ギアガの大穴竜の女王の城についての謎が明かされないこと等がある。

*5:ツクダホビーガンダムゲームはモビルスーツパイロットはもちろん、所持している武器それぞれに専用のユニットチップが付属していて、武器が多い機体(ガンダムなど)は1機なのにチップがうずたかく積まれていたりした。

*6:前者はクソゲーオブザイヤー2012大賞、後者は電車でGoの汽車バージョンのことである。

*7:なお役割演技という点について、勇者はなぜバラモスを悪とみなしたのか、という先の議論にも結びつく。この点について言えば、「幼いときから勇者になるように母親に育てられ、勇者オルテガの息子ということで16歳を迎えた日に王様に謁見し、勅命を受けた」という事実から始まり、バラモスが悪の元凶であることに関する反証がまったくなかったという点を踏まえると、役割演技的に自分の使命に疑問を抱くきっかけが掴めなかったという解釈が可能である。

*8:例えばPS中期から後期あたりに出た電車でGo!の汽車バージョンである汽車でGo!は複雑な蒸気機関車の操作を中途半端に導入したためにゲーム性自体が損なわれてしまった。

*9:その意味でサウンドノベルとして随一の知名度を誇るチュンソフトの「かまいたちの夜」はストーリーと演出が抜群である。また同じくチュンソフト「街」は複数の主人公の話が他の主人公の話に影響するシステムとなっていて、凡庸なサウンドノベルのようなお使い感は皆無である。

*10:RPGではないが、昔セガサターンに「ガングリフォン」「ガングリフォン2」というゲームがあり、未来の(といっても2021年現在は過去になってしまったが)ユーラシア大陸における武力紛争を描いた硬派なシューティングアクションゲームがあった。ストーリーも硬派で、武力紛争が続くにつれてどんどん味方が不利になり、攻勢から守勢にたたされるというのが最高にクールであった(2においては各ミッションのブリーフィングでパイロットが敵方の厭戦放送を聞きながら軽口を叩く、という素晴らしい演出がある)。ところがその続編としてPS2で登場した「ガングリフォンブレイズ」は、それまでの作品とはまったく異なり、ミッションは時系列を無視して選び放題、武器弾薬の補給が、前作が前線に強行突入する補給ヘリのためにポイント周辺の掃討や、補給中の襲撃への対処をしつつ、ヘリの近くで補給を受ける形だったのに対し、ブレイズでは戦場の箱や岩を壊すと出現する弾薬やジュリ缶を回収するといった世界観ぶち壊しの内容となっていた。心が折られた報復として、おれはROMをへし折ったことがある。