ボードゲームの雑感「作者の思想・信条・パーソナリティと作品について」

すぎやまこういちが亡くなったが、ドラクエの曲が東京五輪の開会式に使用されたことについて一部で批判があった。すぎやまこういちはその筋では有名な、いわゆる右翼的思想の持ち主で、また過去に反LGBT的なコメントをしていたためにそれが持ち出され、五輪の精神に反する人物の曲を使うとは何事か、というものである。この手の話は日常茶飯事で、例えばとあるアーティストがクスリで捕まったからといって、当人が出演するシーンがカットされたり作品の提供を見合わせる、といったことは少なくとも年に数回は見られる光景だ。ボードゲーム界隈でも今年(2021年)はじめにマルコポーロの旅路の作者の一人が差別的な発言をしたことで出版元から厳正な対処をされるという事案があった。

作者個人と作品は切り離すべきなのか

最初に結論を書いてしまうと、「個々人の考えに準ずる」という身も蓋もないものになってしまうが、おれ個人の意見は「多くの場合は切り離して考えるほうが合理的だが文脈によっては切り離すべきではない」である。これだけだとよくわからないので事例を挙げて説明する。

これも2021年吊し上げ祭り(東京五輪のことである)で世間の大バッシングを受けた人物であるが、小山田圭吾氏と小林賢太郎氏、大バッシングというほどではないが、批判を浴びたため五輪関連の文化プロジェクトから身を引いた絵本作家ののぶみ氏を題材にしてみよう。小山田氏はミュージシャンであるが、90年代の音楽雑誌に過去に自分の行っていたイジメについて面白おかしく語っていたために、小林氏はお笑いコンビ「ラーメンズ」として活動していたときのコントでナチスホロコーストをパロディにしたために、それぞれ任を解かれている。のぶみ氏は中学生のときに教師に腐った牛乳を飲ませた、という自伝本のエピソードや疑似科学の発信(害を及ぼしうる思想もあったと言われている)により炎上し、いち早く身を引いている。

小山田氏の場合

イジメを告白した件の雑誌の原典にあたっていないので(小沢健二が大して好きではないおれにとって、フリッパーズギターコーネリアスも大して興味がない)、ここから先は純粋に五輪の解任劇において一般に了解されている事柄をベースに見解を述べていく。

小山田氏の”罪状”は、前述の通り音楽雑誌における記事で、過去に同級生に対してイジメをしていた、あるいはイジメに対して直接手を下していないが、面白がって見ていたことを笑いながら語っていたというものだ。これが仮に事実だったとして、五輪の開会式、閉会式に彼の楽曲が提供されることについて、何のつながりがあるのだろうか?「こんなゲスの作った曲が平和の祭典に使われるなんて、あー胸糞悪いザマス!」ということなのだろうが、そんなことを言っていたらモーツァルト(ウンコ好きの変態)やベートーヴェン(癇癪持ちで暴力的)、ワーグナー(傲岸不遜、不倫略奪婚、借金踏み倒し)*1の曲についてどう思うのだろうか。もちろん、小山田氏からイジメを受けた人物にとっては唾棄すべきものではあるが、それは単にイジメだけではなく小山田氏が嫌いなすべての人間にとってそうであろう。イジメの発覚によって小山田氏が嫌いになった場合もこれに含まれるが、それは国民の総意ではなく、イジメと作品には何のつながりもない。ゆえにこのケースにおいては作者と作品を結びつけてしまうのは不合理な判断といえる。

小林賢太郎氏の場合

おれはラーメンズのコントが好きだったので、小山田氏のケースに比べて少し贔屓目に見てしまうこともあるかと思うが、それにしても小林氏の解任は不可解と言わざるを得ない。解任の理由となったコントの概要について触れておく。

NHK教育テレビの「できるかな」ののっぽさんとゴン太くんに扮した小林氏と片桐仁氏が、元ネタの二人がブラックだったら、という設定で、本来では絶対にしない言動をするギャップを楽しむものであった。その中で次回放送における工作物を相談する場面があり、新聞紙で作った人形(ヒトガタ)について小林氏が扮するのっぽさんが「ああ、昔ユダヤ人大量惨殺ごっこをやろうと言っていたときのものな」という発言があり、それが問題とされた。

実際に問題であると抗議したのはサイモン・ウィーゼンタール・センターという団体である。wikipediaによると反ユダヤ主義を監視する非政府組織とあるが、正直うさんくさい団体としか思われない(こういうことを言うと、この手の団体というのはすぐに差別主義者というレッテルを貼って攻撃してくる)。非政府組織になっているが、ロビー活動をしている時点で何らかした政治団体の息がかかっていると思わざるを得ないし、弱者のフリをして人の処罰欲を満たしているだけじゃないかと思う。イスラエルによるパレスチナ難民への仕打ちについてはどう考えているのだろうか。

コントに限らず、コメディやブラックジョークというジャンルは少なからず不謹慎な内容を含んでいる*2。ただし、そこに生まれる笑いは、差別対象に対する嘲笑ではなく、偽善が顕になった自らに対する自嘲の笑いである。弱者をただ笑うだけのコメディやジョークは単なるクソであって、それこそ単なる差別主義者の言動でしかないのは確かである。しかし、文脈や演者の意図を汲まずに、ただ表面的な事実のみを採り上げて批判するのは揚げ足取りであって生産的な批判ではない。まして今回はのっぽさんとゴンタくんという「優等生」があえてホロコーストを口にすることによって、ホロコーストがいかに人としてヤバイ行為であったかを示していたわけであって、小林氏はそれを十分理解していたと言える。

本ケースについて作者個人と作品は切り離すべきかを考えてみると、明らかに小林氏の解任は不合理である。このコントにおいては差別主義者でないことは明白だし、偏った見方による歪んだ文脈による強引なバッシングであった。ただ、五輪というイベントにおける特殊性(世界の国と地域が集まる平和の祭典という理念、各国の政治利用の場)においては、偏ったイメージであっても政治の容喙を招いてしまう。だから文脈的には小林氏を切らざるを得なかったのである。開会式直前ではなく、もっと前に話題になっていたら弁明や擁護の時間があり、また違う結果になっていたかもしれない*3

のぶみ氏の場合

小さな子供がいない世帯の人にとって彼がどういう人なのか、ピンとこない人も多いだろう。彼は元不良(自称)の絵本作家という肩書で活動する人物である。前書きでも触れたようにスピリチュアルな思想の持ち主のようであり、胎内記憶の残る子供にインタビューした記事をSNSに載せたり、分娩の仕方を胎児が選択する(胎児は帝王切開の知識もあるそうだw)といった主張をしていた。もっとも知られたエピソードとしては、のぶみ氏が作詞した曲が母親の自己犠牲を賛美した歌詞ということで大炎上したことだろうか*4

さてそんな彼がオリパラ騒動で何をしでかしたのかというと、小山田氏の過去のいじめ報道が飛び火した格好での辞任となった。自伝本で中学校の教師に腐った牛乳を飲ませた、専門学校時代に女性教員を恫喝した、といった内容がそもそもの発端だったようだ。過去に何度も炎上していたために危険を察知し、辞めさせられる前に辞めてやろう、ということで辞任した、と世間的には認識されている。のぶみ氏のオリパラにおける役割は、五輪文化プログラムの一イベントの出演であった。おそらくMAZEKOZEアイランドツアーというイベントへの参加者の一人だったのだろう。さてこのイベント、コンセプトは次の通り。

ジェンダー・年齢・国籍・障がいの有無など様々な個性・特性のあるアーティストやエンターティナー等のアートや音楽、パフォーマンス。それらが繋がり交じり合う島々を巡り、「まぜこぜ=多様性」を可視化。
それはまさに共生社会の居心地の良さに気づく旅。この「MAZEKOZEアイランドツアー」によって、視聴者は自分と同じ人などひとりもいないということに気づくことにもなり、共生社会の実現にむけた 「きっかけ」「出会い」「共鳴・共感」へと誘う物語。 

(引用元:https://www.tokyo2020.jp/ja/games/caring/nippon-festival/one/index.html

さてここで作者個人と作品は切り離すべきかを考えたときに、小山田氏、小林氏とは異なり、そもそも作品を出品するのではなく、本人としての出演であることから、彼のパーソナリティ、過去の経歴すべてが、このイベントに照らしてふさわしいものかどうかが審査されるのが妥当だろう。ゆえに、のぶみ氏のケースは一体として捉えることが合理的であり、文脈においても切り離して考える要素はないと言える。

ダニエル・タッシーニ氏の場合

ここまでの話で「合理的な判断と文脈による判断」についてなんとなく理解いただけたかと思うので、本題である(ようやく本題だ)タッシーニ氏のケースを考えてみたい。冒頭のリンク先記事によれば、「差別は言葉自体ではなく文脈から起こるとして、その例としてアフリカ人の友人に「ネグリ」と呼んでいるが抗議されたことはないとした。」そしてこの「ネグリ」という言葉が差別語だとして広く拡散されたために、ボードゲームの出版社がタッシーニ氏を切る判断をしたという。元のイタリア語の記事を確認しても特にネグリという発言は発見できなかった。ところどころnegliという単語が出てくるが、これは単なる前置詞+定冠詞だし(そもそもネグリではなくネッリと発音する)、黒を意味するneroという単語も特に問題なく使われていると思われる*5。タッシーニ本人が弁明するところの英訳の際に生じた問題というのが実際真実なのではないかと思う。

ただ、切り抜かれたら差別主義者と誤解されてしまいそうな発言もあるにはある。BGG上で、Alma Mater(15世紀のルネサンス期の大学を舞台にしたボードゲーム)の登場人物に黒人がいないことについて議論があったことに触れ、「歴史的な背景を考えれば舞台となっている大学で黒人がいることは変なので、黒人がいないことは当然のこと」という話題に対して「プエルトリコでも新版では入植者が労働者という名称になり、駒が茶色から紫に変更になった」ことについても違和感を表明しているのだ。きちんと前後の文脈をたどれば、「歴史的な事実に目を向け、正確な表現を行うことが重要」という主張であることがわかるのだが、切り抜きが横行するSNS時代ではいとも簡単にこうしたディテールが(意図的であれ無意識であれ)欠落してしまう。ちなみにこの主張に対してはおれも同意見である。腫れ物に触らないよう、臭いものに蓋をするようなポリティカル・コレクトネスにはうんざりしている。それよりも歴史的に正確な表現をした上で、別途フォローする(Navegadorのように歴史背景の冊子をつける等)ほうが、よほど偏見や誤解を生まないと考える。むしろ入植者をプレーンな労働者として、奴隷貿易の事実を隠すほうが悪質ではないだろうか*6

話を戻す。ここまで本ケースを調べてはみたが、結局のところ差別発言があったのかなかったのか確認ができなかったため、本記事のテーマである作者と作品の紐付けについては、わからないというしかない。個人的には合理的ではない判断のように感じるが…

 

ここからは余談。タッシーニからの連想でタッシーニと共同でゲームを作ることの多いルチアーニの話。以前の記事でルチアーニ好きであることに触れ、また2020年7月の記事において、BGGにおけるBarrageの不当な評価に対する見解を述べたが、あれから1年半が経ち、BGGで50位以内、アベレージスコアで8.1という見立てが証明された(記事執筆の2021年12月14日の段階で43位、アベレージスコア8.23)。予想が当たったこともそうだが、Barrageが正当に評価されつつあって嬉しい限りである。

boardgamegeek.com

*1:念の為触れておくが、当時の価値観では彼らの特徴が必ずしも批判一辺倒であったわけではない可能性がある。

*2:このジャンルの革命者であったモンティ・パイソンラーメンズよりもよほど過激であった。

*3:まあことなかれ主義に染まった組織委員会では、どちらにしろ結果は変わらなかったとは思うが。

*4:ものすごくダイジェストで歌詞を紹介すると、子供が生まれる前はオシャレも食べ物も夜遊びも好き勝手できたけど子供が生まれたらお母さんはいろいろガマンしなきゃいけない。それでも頑張っているのは子供のため、というもの。はっきりいってメンヘラ毒親のメンタリティを文字に起こしたみたいで気持ち悪い歌である。歌わされただいすけお兄さんがかわいそすぎるので、ぼよよん行進曲を聴いてください。

*5:おれは学生時代の外国語選択はイタリア語であったが、もちろん身につくはずもなく、翻訳サイトの力を借りた。

*6:Navegadorを引き合いにだしたので、さらに蛇足。Navegadorの他、様々なゲームの題材になっている大航海時代は、ヨーロッパにとっては発見の歴史であったが、発見された側からすれば苦難の始まりであったことを忘れてはならない。ポリティカル・コレクトネスを絶対とするのであれば、植民地を開拓するようなゲームも同じ扱いをすべきでは?と思う。